ユーラシア経済ニュース

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YouTubeの低評価非表示が、なぜ納得できないのか

 YouTube動画の低評価数が非表示になる仕様変更が賛否を呼んでいる。表向きのアナウンスとしては「クリエイターに対する誹謗中傷を防ぐため」ということになっているが、ユーザーからは不満の声の方が多いようである。視聴者に対しては表示されないけれども動画の投稿者本人は動画に対する高評価・低評価の数が依然として分かる仕様になっているため意味がないとの指摘もある。あえて低評価が付くような、釣り動画やネタ動画を投稿して再生数を稼いでいるYouTuberもおり、そういう投稿者からすればほとんど死亡宣告にも等しい仕様変更だろう。高評価にせよ低評価にせよ、動画に対して一定の働きかけがあるということはそれ自体が投稿者にとっては貴重なものである。だがそれを別にしても、全般的な反応はやはり非表示に対して否定的なものだ。11月11日にYouTubeの公式が投稿した低評価数を非表示にする仕様変更を伝える動画そのものが、数万件の高評価に対して数十万件の低評価が押されている。


 なぜ低評価数が表示されなくなってしまうことが、スムーズに受け入れ難いことなのか。これはまさに、低評価数を非表示にする旨を伝える動画の低評価数が多いためみなが受け入れていないということがわかるという、入り組んだ事実がヒントになる。
 現代はコンテンツで溢れている。ある調査によれば、1分間にYouTube動画は500時間分投稿され、Facebookには26万件の新規投稿がなされ、Instagramには34万件の写真がアップされ、Amazonには6,659点の新規商品が出品されているという。あまりにも情報が過剰だ。こうなると、「そもそもどのコンテンツを見ればいいのか」ということさえわからなくなってしまう。


 このように取るべき行動が分からないとき、人間が参考にするのが「ほかの人はどのようにしているか」だ。YouTubeの動画は、再生されるものはすごく再生されるし、再生されないものは全然再生されない。うまくブームに乗った動画は何万回と再生される一方で、乗れなければ数十回、場合によっては数回しか再生されない動画がある。この背景にあるものは、「ユーザーは結局他のユーザーが見ているものを見ようとする」という行動原理である。どのコンテンツを選ぶべきかわからないときは、とりあえず他の多くの人が選んでいるものを選ぼうとするだろう。その結果として、再生数が伸びた動画はさらに伸び、伸びない動画はずっと伸びない状態にとどまってしまうのである。


 動画を開いたあとも、それを視聴し続けるべきなのかどうか。最後まで視聴したならば、その動画の内容や主張を是として良いのかどうか。一般的な意見はどうなのか。こうしたことが、多すぎるコンテンツのためによくわからない、判別しかねるという状況に多くの視聴者が置かれている。
 そのような状況では、何かしら判断の材料となる指標が欲しくなるのは当然である。動画を観て「面白いな」と思っても低評価が多ければ一般的には受け入れられていないことなのだとわかるので、表立って賞賛することは回避することになる。高評価が多ければ安心して自分も賛同者の列に連なることができる。


 このように「他の人がやっている・言っていることによって自分の意見を確認する」というような心の働きを心理学では「社会的証明 Social Proof」という。どのように行動すればよいかわからないとき、人はとりあえず周りの人と同じように振る舞おうとする。とりわけ現代のコンテンツの大洪水の中にあっては、多くの人は「周りの人がどう評価しているのか」という指標がなければ身動きが取れなくなってしまう。


 テレビのワイドショーというものはそういう作りになっている。コメンテーターはわざとらしく、犯罪の容疑者や不祥事を起こした会社の役員などに憤ってみせる。それを見た視聴者は、自身の中にある勧善懲悪的な感情を承認された気分に浸ることができる。ワイドショーは社会的証明の原理を用いたストレス発散装置だ。あるいはバラエティ番組でSEとして追加される笑い声も「ここで笑ってもいいんですよ」という社会的証明を暗に提供することで、視聴者が安心して観ることができるようにしている。


 逆の社会的証明もある。たとえば自殺や犯罪の報道が、自殺や犯罪を呼び起こすことがある。また「壊れ窓理論」として知られているが、放置されている空き缶が一つでもあるとそこに次々にゴミが放置されていくようになるということがある。この場合は「そこに空き缶を放置した人がいる」という事実が社会的証明となって、一般的な規範には反する「空き缶を放置する」という行為に承認が与えられたような気分にさせてしまう。


 要するに、どのコンテンツを観るべきかさえ分かりづらくなっているコンテンツ大氾濫の時代には、人間には「ほかの人がどう評価しているか」という社会的証明によってラクをしたいという欲求がある。そしてコンテンツにおける再生回数や高評価・低評価数、他の人のコメントなどは、その判断材料として皆が何よりも求めているものなのである。だから、YouTube側の真意は測りかねるが、ともかくもその材料が隠されて「ほかの人がどう考えているか」がわからなくされてしまうのは、人間の認知的にものすごくストレスなのである。これは実際のコンテンツが良質かそうでもないかということとはまったく関係のないことだ。YouTubeとしては低評価の多いコンテンツに自社の広告が表示されるのを嫌う広告主の意向を反映しているということなのであろうが、コンテンツがあり、他の人の動向があり・・・という情報の中で世論や周囲の見解を知ろうと思っているユーザーにとっては改悪以外の何ものでもないであろう。


 また投稿者の立場から言えば、視聴者がYouTube上で投稿者に対する他の視聴者からの一般的な評価を知ることが難しくなるので、新規の視聴者を獲得していくことが難しくなるだろう。新たにその投稿者の動画を観たひとが、高評価・低評価の数の割合からどういう評価をされている投稿者なのか瞬時に判別できなくなるからだ。今後はすでに一定の知名度を獲得している投稿者がさらに強化されていくか、あるいは投稿者がYouTube以外の場所で知られるようになって、その知名度をベースに動画コンテンツだけが便宜的にYouTube上で提供される、というような形に収斂していくだろう。つまり、YouTube上では見知らぬコンテンツに対する評価を下す材料が提供されないため、新しいファンはファンになっていいという確信をYouTube上(だけ)で獲得できなくなっていくだろう、ということだ。それと同時に、きちんとしたコンテンツを配信している投稿者には、動画を視聴したうえで自分の判断でフォロー(チャンネル登録)する主体的なファン層が形成できるようになっていく。


 いずれにしても、これまでのいわゆるYouTuber的なおもしろさはかなり減殺されていってしまうことだけは確実だろう。「こんなクソ動画なのに低評価がほとんど付いてないな」とか「良い内容なのに低評価が割と多くて投稿者も大変だな」とか、そういった感想も含めてのYouTubeだったはずだ。なんといっても人間は社会的動物である。視聴者は他のユーザーのコメントが流れてくるニコニコ動画に流れていくかもしれない。

 

<読書案内>

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

「壊れ窓理論」の経営学 犯罪学が解き明かすビジネスの黄金律