ユーラシア経済ニュース

日本であまり報道されない、ユーラシア大陸の経済ニュース記事を翻訳して紹介しています。

比較言語学でよろしかったでしょうか

  先日とある喫茶店で読書していると、レジの店員が「ご注文はアイスコーヒーでよろしかったでしょうか」と言っているのを耳にした。「よろしかったでしょうか」という言い方はいわゆるバイト言葉であり、正確な敬語ではない。あるタイプのマナー講師などを憤激させる類いの物言いである。様々なバイトのマニュアルにも当然使わないようにという指導が入っているはずなのだが、それでも一向に死滅する気配がない。これだけ広く蔓延る言い方であるからには、なにかしら自然にそうさせてしまう力が働いているはずである。そのように考えて辿りついたのが、「これは日本語という言語の制約の下での婉曲表現なのではないか」という仮説である。

 

 「よろしかったでしょうか」と検索してみると、「現在のことを確認しているのに過去形だからよくない」という説明がなされている。だが、たとえば英語では表現を婉曲にするために過去形が用いられる。たとえば「電話をください」と言うときに、"Call me."では当然不躾で、"Could you call me?"などのように言う。一般に、"Will you~"や"Can you~"よりも、過去形を用いたほうが丁寧さが増すとされる。

 

 また、反実仮想や非現実的な仮定のもとに話をするときも過去形を使う。「もし私が君の立場なら〜」を"If I were you..."というようなときの仮定法には過去形を用いる。また挨拶で、調子はどうかと聞かれて「最高だ」というようなときには"Couldn't be better."という。「考え得るその他の可能性すべてを考慮しても、実際にいまそうであるよりもよくない」という形で「最高だ」と言っているのであり、Couldを用いることによってそのような仮定があることを表現している。

 

 英語でこのような言い方をするのは、英語には条件法がないからだ。条件法はフランス語やドイツ語(ドイツ語では接続法という)では普通に用いられる。フランス語には大きく分けて直説法と条件法があり、英語でCould you~と表現するような婉曲や反実仮想を、動詞の活用によって表現する。

 

 たとえば"Si j'avais le temps, je viendrais vous voir."(もし時間があれば、あなたに会いに行くのに)という文がある。avaisはavoir(英語でいうhave)という動詞の直説法反過去、viendraisは、venir(英語でいうcome)の条件法現在形である。これを英語で書くと、"If I had time, I could see you."となる。Siは英語のIfだから、Ifから始まる条件節の中で過去形を用いるという点では英語もフランス語も変わらないのだが、フランス語の場合はSiの節がなくとも、条件法現在を用いることで文の後半(je viendrais vous voir)だけで反実仮想を表現することができる。英語でこれをやるためには、たとえば"Wish you were here."のように、wishなどの動詞を伴わなければならない。ただ"You were here."では、単なる過去の事実の表明にすぎないので、「そうですか」と言われて終わりである。

 

 こちらのサイトに掲載されている「それは驚きだね」という表現(Ça m’étonne.)がある。この①Ça m’étonne.は直説法現在で、②Ça m’étonnerait.となると条件法現在である。①はそれ(Ça)が現実にありうることだという含意があり、条件法の②は「それ」が本当かどうか怪しいものだ、という気持ちが出ている。英語ならば、①はThat is surprising.、②はThat could be surprising.となるだろう。②はThatに対する信用ならない気持ちが過去形で表現されている。"A true man would not do such a thing."(真の男はそんなことをしないだろう)というような表現も同様のwouldである。過去形に頼る英語の書き方では、当然ながら「それは驚きでありえただろう」とか「真の男はそんなことをしないものだった」という過去の習慣や事実に関する表明の文と読めないこともない。この例文に関するかぎり、フランス語のほうが意味合いは明瞭である。

 

 さて日本語には当然条件法なるものは存在しない。だが、「よろしいですか」と端的に言うのはなんとなく押しつけがましい感じがする。なので、多少婉曲にしたいという気持ちが「よろしかったでしょうか」という、過去形を用いた婉曲表現として出てきているのではないだろうか。そしてそれは英語でも用いられている、「過去形による婉曲化」なのである。


 以上の議論を踏まえたうえで、「よろしかったでしょうか」は、ムカつくので言わないで欲しいと思う。商取引における事実関係の確認なのであるから婉曲云々ではなく「よろしいですか」と言い切るべきである。

 

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